【鍵谷カナ(かぎやかな)について】
鍵谷カナは伊予絣の創始者といわれ、イオリ工芸におけるモノづくりに対する姿勢のお手本としている方です。

1)鍵谷カナ(かぎやかな)
伊予絣は鍵谷カナが織り出したのが始まりと言われています。父は鍵谷清吉、母は松本氏。天明2年(1782)愛媛県温泉郡垣生村今出(はぶむらいまず)に生まれ、加奈子と名づけられました。小野山藤八に嫁ぎ、元治元年(1864)83歳で生涯を終えています。今も命日にあたる5月28日には、長楽寺(西垣生)の鍵谷カナ頌功堂(しょうこうどう)にて地域の人の手によって鍵谷カナ祭が開催されています。


 鍵谷カナ頌功堂

2)カナの幼少時代
当時の垣生村では、7、8才になると、母親に手を竹でたたかれたりしながら、糸引き(糸を作る)の仕事を教えられます。そして次に10才頃からは地機(じばた)で機織りを教えられます。体が小さいと、足に高下駄をはかせて織りを練習します。機織りと裁縫は大切な嫁入り修行なのです。カナは12、13才頃には近所でも評判の織り子さんになっていました。

カナ幼少の頃のこんなエピソードがあります。カナは、家の近くの庄屋さんの家で村の娘さんたちと一緒に裁縫を習っていました。ここでいろいろな着物の縫い方を学ぶのです。カナは家に帰ると古くて着れなくなった着物を解いて、習ったことや一人で工夫したりして縫い方を勉強していました。

ある日、いつものように庄屋さんに行くと、途中まで縫いかけの女の子の着物がありました。まだだれも来ていなかったので、その着物を触っているうちにいつものように解いてしまいます。ところがなかなか上手に縫い戻すことができずにそのまま家に逃げ帰ってしまいました。翌日からは庄屋さんの家に行くこともできずに悩んでいました。数日後、庄屋さんのおばさんと田仕事の帰り道でばったりと出会います。着物のことで叱られると思っていたのにおばさんから「カナさんは機織りも上手だし、きっと村一番の縫い子さんになれますよ」と励まさせ、またお裁縫を習いにくるようにと言われます。

3)カナのカスリの作り方
このようなエピソードは、カナの織り仲間のひとりであった三原サダさんのお話から伺うことができます。サダさんは昭和4年当時で98才、耳は少し遠いようですが、声は若々しく、元気だったご様子。カナのことをこのように覚えておられました。

「おカナ婆さんは、おだやかな上品な人でした。でっぷりとよく肥えて色の白い、りこうな人だった。機織りも裁縫もとても器用な人。なんでも一度見たことは覚えており、裁縫でも”型が良い”と思ったら、一度解いてしまい、良いところを覚えるというふうに熱心な人だった。当時村の庄屋だった渡部さんという家に出入りしていたから、自然に良い人と交際し、刺激を受けたのでしょう。」

三原サダさんが生まれた年は天保2年(1831)で、カナ婆さんが亡くなったとき33才でした。カナのカスリについてもこのように話をしています。

「自分が覚えているのは、1尺角くらいの四角な大枠に糸を繰って、4尺の長さの綛糸(かせいと)を4つに折って、1尺くらいの木綿幅となし、それを尺で寸法をはかって、菜の葉の汁で染め、経糸(たていと)もそれに合うように経延べをなして、染めたものを機にかけ、幅に20の十の字ガスリを織っていたことを覚えている。それから続いて井筒のカスリなどが出来たように思う。」

「そのころは地機(じばた)であって、自分なども10才のころから腰に石をくくりつけ、地機を織らされて難儀したものである。その後、高機(かたばた)が始まったが、自分の母が高機の織り始めであったと思う。なにぶんそのころは機も少なく、村中に14、5台あるかないかで、また今出の家数も百軒余りくらいであったように思う。」

これらから鍵谷カナのカスリは、糸は手紡糸、染めは菜の葉染め、機は地機、カスリは幅20個の経緯カスリという外郭が見えてきます。また、弘化3年(1846)頃に伊予節が流行し、その中では「伊予結城」という言葉が使われていることから、垣生村では14、5台の地機と高機を使い伊予縞が織られ、そしてそれらは伊予結城と世間に絶賛されるほど完成度の高い織り技術であったことが伺えます。おそらくカナ自身は、カスリを織っているという感覚ではなく、変わった縞織物を織っているという感じだったのではないでしょうか。


4)カナの創案動機諸説について
1、先述のサダさんの説です。「おカナ婆さんは、一度見たもの(着物など)は何でも自分がこしらえてみるという器用な人であったから、着物の型付けなどを見て考えついたのだと思う。」この説には多少の想像も入っているようです。

2、昭和4年当時、伊予織物同業組合評議員の橋田嘉太郎さんの母カメさん(カナの曾孫)から伝え聞いた説です。「往時一般民家の屋根は、たいてい藁葺き(わらぶき)であった。ある時カナは、自宅の藁屋根のふき替えの時、押し竹に出来ていた模様を見て、思いついたものである。つまり、押し竹の縄で括られていた部分は白く、他の部分は茶褐色で、きれいな模様になっていた。これに感動。この形を糸に染め出し、布に織れば、必ず素晴らしいシマ模様ができると思い努力を重ねたのだった。」

3、中矢憲三郎さんが父親の三次さんから聞いた説です。「カナは若い時、憲三郎さんの祖母や村の人数人と四国88ヶ所巡りに出たことがある。参拝した霊場の数を覚えきれないので、カナはたもとに糸の綛を入れておき、参拝を終えるたびに別に糸で括っていった。村に帰り、何気なく糸をほどいてみると、汁やアカでネズミ色に汚れた綛の、糸で括った部分だけが白く残っていた。これにヒントを得て、カスリを考案した。祖母が生きていた時は、その時の霊場巡りの同行者の名を書いた紙があったが、亡くなった時、棺の中へ入れてしまった。」

4、伊予絣創始頌功碑に刻まれた説です。「結婚して間もなく、讃岐の琴平社に参る時、久留米人が飛白(カスリ)織りの布を着ているのを見る。これに喜んで、自ら青草を搾って汁を取り、綿糸を染め、試験を繰り返して飛白(カスリ)を織り、その後、完成させていった。」

*注釈:4の説の「久留米の人」については、明治になって久留米が絣の産地であることは周知されていたことから久留米を引用したのではないか、或いは「久留米の方面から来た人」という意味での引用、ということが考えられます。また、「着ていた飛白(カスリ)織りの布」については、当時、久留米はまだ産地としてカスリは織られてはなく、当時すでに織られていた琉球カスリか何かかと思われます。久留米絣の創始者、井上伝は天明8年生まれですから、カナがカスリを織り上げた当時、13、4才であり、カスリの仕込みから織り上げまでの当時の状況を考えると無理がでてしまうようです。確かに頌功碑には久留米ガスリとは書かれてはいませんが、インドから始まったカスリがシルクロードを経て、日本の南から伝わったという説もあり、この説の真意はその後も猜疑を醸しだしています。

私なりの所見ですが、これら4つの説はある部分においては事実ではないかと思っています。カナの性格、特性からきた要因。観察を持って興味を持ち、自己流ながら完成度を高めていった点。当時、伊予節として唄われるまでに評価された伊予縞の製織技術。これらがカナを含めてわずか数十人の織り手によって為されていたということ自体が賞賛されるべきではないでしょうか。その後、紺絣へと形態を進化させ、伊予絣として明治、大正の一時代を風靡する一大産業へと変貌していくことになるのです。

5)当時の時代背景
葛飾北斎(1760−1849)、歌川広重(1797−1858)ら浮世絵にみる当時の服装から時代背景を考察すると、北斎の当時、灰色地(草木染め)に絣柄というものが見受けられます。これに対し、広重の絵からは紺色地(藍染め)に絣柄が多数見受けられるようになっています。絣織物は当時、紺無地、縞、型染め、絞り染めと並んですでに一般的であり、その製作技法のみが特殊なものであったとみるのが自然です。織物に携わる人達の間において、そのカスリ製法は大変興味深いものであったでしょう。それは絣織物としてではなく、変わった縞織物の延長として認識されていたのではないでしょうか。伊予以外においても各地でそれぞれの工夫・技術により製織されていたことも推測されます。




【参考文献・資料等】
「鍵谷カナ、下見吉十郎、義農作兵衛」愛媛県教育会 昭和58年発行
「愛媛の昭和史 伊予ガスリ」愛媛新聞 昭和57年10月発行
「飛白織工労姫命の碑」明治20年
「鍵谷カナ 頌功碑」昭和4年
白方宣年個人資料


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