【伊予絣(いよがすり)について】
伊予絣は愛媛の伝統木綿織物であり、イオリ工芸の生産技術の基盤となっているものです。従来の学者的な視点だけではなく、生産者の視点も含めてまとめたものとしました。。

1)伊予絣の概要
伊予絣は紺の木綿絣(平織りの先染め織物)で、「かすり」とは「カスル」「カスミ」「コスリ」「カスレ」等より転化した語といわれています。一般的で伝統的な柄は、井桁、十字などの幾何文様です。その他にも地域性に富んだ絵絣(松山城、姫だるまなど)もたくさん織られ、柄の繰り返しによる美しさに特徴があります。


 井桁文

伊予絣は一般大衆の着物地として、昭和の初め頃までは日本全国の隅々まで広く行き渡っていました。当時都会では、子供達の普段着に喜ばれ、農村では、女性の働き着として好まれていました。旅行へ出かける時や、記念写真撮影をする時には、新調した絣の着物を出して着ていたようです。

2)鍵谷カナ(かぎやかな)
伊予絣は鍵谷カナが織り出したのが始まりと言われています。カナは、天明2年(1782)愛媛県温泉郡垣生村今出(はぶむらいまず)に生まれ、小野山藤八に嫁ぎ、元治元年(1864)83歳で生涯を終えています。今も命日にあたる5月28日には、長楽寺(西垣生)の鍵谷カナ頌功堂(しょうこうどう)にて地域の人の手によって鍵谷カナ祭が開催されています。詳しくは「鍵谷カナについて」をご覧ください。

3)伊予絣以前
伊予における綿作は、すでに元禄年間(1688〜1704)には盛んで、農家では自家用の綿織物を地機(じばた)で織っていました。伊予絣が生まれる前は、木綿縞(もめんじま)が織られていましたが、当時は、この地機も能率が良くなかったので、その生産量は地方の需要を満たす程度のものでした。ところが、今治波方出身の菊屋新助(1773〜1834)が、文化年間のはじめ頃、絹高機を改造してつくった菊屋式木綿高機が寄与し、文化年間(1804〜1818)以後特に、木綿縞の増産が著しくなりました。

 菊屋式高機


この織物は道後縞、松山縞、伊予結城(いよゆうき)など(総称 伊予縞)と呼ばれていました。特に、伊予結城は本場の茨城県の結城木綿と、生産量で肩を並べていたこともありました。すなわち、伊予絣以前に綿織物は盛んであり、その手慣れた織技が、伊予絣に発展していったのです。

4)産地「伊予絣」
藩政時代は、今出(いまず)地区だけで織られていたところから、今出鹿摺(いまずがすり)と言われていましたが、他県に移出されるようになって、何時の頃からか、伊予絣(いよがすり)と呼ばれるようになり、伊予の綿布として全国的に知られるようになりました。

明治20年代以後は、木綿縞に代わって伊予絣の生産量が増えていきました。その販路を広げたものとして、温泉郡中島町の睦月島(むづきじま)や野怱那島(のぐつなじま)の行商人があげられます。彼らは50〜60隻で、1隻が500〜1,000反を積み、海路を音戸(おんど)、呉、広島、岡山、日向、出雲など西日本一帯に広げていったと言われています。これらの変遷をたどりながら、伊予絣は、明治27年前後より本格的に発展していきました。

明治28年(1895)には、正岡子規(1867〜1902)が人力車で今出(いまず)の村上霽月(むらかみせいげつ)を訪ねた時に詠んだ句があります。

「花木槿(はなむくげ) 家ある限り 機(はた)の音」


槿(むくげ)は夏の花と言われていますが、実際には秋先まで咲き続ける花です。
秋になって「まだ咲いていたの・・・。頑張っているね。」という感覚と、しばらく村を走ったのに、「まだ織っているところがあるんだ・・・。」という驚きが交差して詠まれたものです。この時空間を感じさせる表現から当時の今出地区の様子が伺えます。

明治39年には、年産約247万反を記録し、絣生産で全国一位となりました。当時の生産地は、今出地区のほかに、現在の松山市北部地区、北条市温泉郡中島町、伊予市に及んでおり、製品の種類や柄も豊富になりました。販路は京阪神から名古屋、東京、北陸、中国まで広がっていきます。また、絣業が盛大になるとともに、製織器具の改良発明と応用が行われ、その導入も迅速でした。製品の検査、及び指導機関としても、明治11年に設立された縞会社や、明治17年の松山縞改会社を経て明治20年1月、伊予織物改良同業組合が認可され、組合員の指導という積極的機能が確立されました。

その後、日露戦争後の経済界の不振で大正4年に至る10年間は低迷を続けましたが、第一次世界大戦によって、経済活動が活況を呈した大正5年頃から同8年にかけて活気を取りもどし、この時期が伊予絣の歴史のなかでの全盛期となりました。

5)産地の衰退
しかし、翌9年からわが国は恐慌に見舞われ、伊予絣も痛手を受けます。価格は暴落し、一時休業する業者も出てきました。

大正10年に入り一時業界は好転します。大正10年から昭和4年まで製反数は200万反台を維持していましたが、価格の下落は激しく、昭和4年の生産者価格は、大正10年の半分以下となりました。


この頃の伊予絣は、主として中部、関東、東北などの農民を顧客層としており、低廉な価格でなければ売れず、そのために、粗製や濫造になることもありました。このため業界は、絣量目や、染色標準の引き上げ、織工名記入の章標紙の織り込み、優良染工奨励や、新柄奨励制などの対策を講じます。これにもかかわらず、その後は生産量が200万反を割り減少を続け、生産額も一時期を除き下降して、昭和20年まで衰退の一途をたどります。

大正末期から昭和初期にかけてのこの時期は、小学校では制服が制定され、農山漁村の人々の服装も漸次洋服化していった時期でした。さらに、日中戦争が始まり、綿花の輸入制限が行われ、これが要因となって衰退を早めました。また、昭和18年から戦力増強、企業整備で転業者が相次ぎ、残ったのは、白方機織所、浜田機織所、須賀織布工場のわずか3軒となりました。さらに、昭和20年7月の松山市空襲により、生産は一時途絶えました。




6)戦後の推移
戦後は、昭和23年から生産が再開されました。衣料不足から昭和27年には、200万反を超える生産量まで回復し、活況を呈し、業界数も大幅に増加しました。しかし、28年頃から、綿スフ業界(スフとはパルプを原料とした綿の代用品)は、全国的に生産過剰気味となり、市況が低迷し、絣業界も同様であったところへ、備後絣の隆盛があり、伊予絣の販売地域に浸透してきました。伊予絣はシェアを奪われ、苦しい状態に追い込まれました。

29年には、政府によって織機の登録制が実施され、自主的に生産を制限し、業界の安定を図りますが、過剰織機のためその効果はなく、31年より機械の買い上げが実施されました。32年には、伊予、備後、久留米の三大産地が共同して生産調整を実施しますが業況の回復は得られず、その後の生産は毎年減少を続け、昭和40年には100万反を割りました。さらに、昭和63年では、4万反を下回る生産量となり、かつての華やかな伊予絣産地の面影はなくなりました。

前述の備後絣の隆盛については、問屋と売り子の積極的販売網拡充ということもありましたが、染料の80%程度まで化学染色法に変え、時代感覚に合った模様柄の多様化や、絣の広幅の量産化試行をするなど、伊予や久留米の産地より先行していました。それらが消費ニーズに合ったといえます。

一方伊予地区では、対外的に販路開拓が遅れました。その理由として、染色は昭和30年頃まで、醗酵建てで特定の職人の勘に頼る染色法であったことや、デザインや色彩については、需要者の大部分が農山村向けであったため、あまり変化がみられなかったことなどがあげられます。


 
昭和30年代の藍染め


【参考文献・資料等】
「知っておきたいひめぎん情報 NO、119」昭和63年10月1日 愛媛相互銀行発刊
「伊豫絣の沿革的経済的研究」川崎三郎著 昭和16年発行
 「伊予絣」 河野正信 (愛媛文化双書)昭和48年発行 
「愛媛の昭和史 伊予ガスリ」愛媛新聞 昭和57年10月発行
白方宣年個人資料

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